回顧録 no.94 「‥夢の風景 ~空飛ぶサンタナ」
「~空飛ぶサンタナ」
その車は 空を飛んだ
手元にあったのは 2年半ほどだったが 間違いなく 何回も 空を飛んだ
明るく広く 開放的で 無駄なものがない 空間
内装はアイボリー オレンジ柄のチェックシート スイッチをひねれば
なじみのない 5気筒エンジンが 乾いた音色を 届けてくれる
それだけで 心は 空を飛び 高原の一本道や ループ状の道路を 走ると
そのまま青空に 浮び出していきそうな ワクワク感があって
とても 幸せなひとときを 妻と 共有していた
妻の 機嫌が悪い時は その車が 特効薬
乗る前は仏頂面でも 少し走るだけで 笑顔になっていく
本当に 僕にとっては 救世主に見えて 空飛ぶ 心持ちになる 車だったのだ
車の名前は サンタナ 鮮やかな 鶯色の セダン
偶然 友達が勤める 中古車センターで 出逢った
磨き上げられたばかりの 彼は 朝陽の下に 青年のように
きらきらと 眩しい光を放ち そこだけが 別世界のように 輝いて見える
名前の由来も 好きだった
行ったこともないのに その気にさせてくれるような
一目で もう 僕の車だと 決めていた
派手か 地味か といえば 地味の部類に入ることは 間違いない
当時 流行したデザインからは 遠く離れていたし
エンジンも 非力だったから 軽にも すぐに抜かれる
それに ドイツの部品を 日本で組み立てて 売るという
国籍不明 前代未聞の販売で 人気は あまり 出なかったと思う
センターの友達だって 余り勧めなかったし‥
だけど 僕と 妻は 違った
気に入ってくれた妻は 休みの度に 助手席に座っている
行くところが 無くても 座っている
乗るだけで 空飛ぶ気持ちだったんだと 思う
東京転勤が決まり 別れは 突然に やってきた‥
維持費用や使用頻度などを 考えて やむなく手放すことにし
その夏 最期の 空飛ぶドライブに 家族で行った
玄界灘に延びた 海岸道を走る 子どもたちは 後ろで 新しい生活を 夢見
僕と妻は 愛するサンタナに 最期の飛行で 別れを告げる
あれから32年経つ
何台かの車に 出逢ったが 空飛ぶ(ような)車は サンタナ だけだった
妻も しばらくして 免許を取ったから
今ごろは サンタナに乗って 笑顔いっぱいに
あの青空を 飛んでいるかも知れない