回顧録 no.39 「‥笑うと目のない Hくん」
「‥笑うと目のない Hくん」
会社に入って知ったHくんは 垂れ目で 笑うと目が無くなり 愛嬌あふれる
表情と 優しい心を持ち 誰からも愛されていた
めったに怒ることもなかったが 怒っていても 怒っていないような
穏やかな話し方と 柔らかいアクセントの言葉を発していた
いつだったか 片側通行の道で 青信号で入ったら 向こうから
明らかに 信号を無視した トラックが来る
しかし H君はあわてる風でもなく ゆっくり進んだ
トラックはライトを点滅させて こちらを脅してくるかのよう 運転手もどこか
恐そうに見えて
H君は トラックの前で止まると 車を降りて トラックに近づき
運転手に 何か話しかけている いつものとおり 笑顔を崩すことなく
すると トラックがバックし 道を譲った
「何を言ったの?」と 聞いたら
「僕に後ろには 多くの車がつながっているけれど
あなたの後には 1台もありません 譲っていただけないですか?」
と 言ったそうな
確かにそうだったが 笑顔で言える勇気に ひそかに尊敬したことを 記憶している
H君の奥さんに 初めて会ったのは 彼との 最後の別れの日
彼の笑顔に とても似合いそうな 小柄の 美しい人だった
葬儀会場には 多くの写真が飾られ その中の幾枚かには
H君夫婦の両隣に 二人の女性が写っている
ひとりは 目がHくんにそっくりで ひとりは 奥さんに似ていた
ふたりの お母さんだと思う
一人っ子同士だった H君夫婦は お互いの両親を とても大切にした
お父さん達が 先に逝った後 ひとりぐらしになった お母さん達を呼び寄せ
家を改造し ずっと4人で暮らしていた
60を前にして 関連会社に行くことになり その時受けた 健康診断で
異常が見つかった 血液の癌だった
彼は 入社を断り ふるさと近くの病院に入って 治療を続けた
二度逢いに行った
一度目は 前向きで頑張るからと 明るい笑顔だったが
二度目は 少し痩せていて 多分 これが最後の治療になるよ と あの垂れ目で
笑いながら つぶやいた
それが 最後に見た 笑顔になった
あの時 談話室の窓から 二人で見た外の風景は 今でも覚えている
風が強く 雲の流れも速かったが 周りのビルたちに 太陽の光がふり注ぐ
小春日和の 日だった
出棺前の お別れの時 微笑んでいるようなH君に
ありがとう というと
彼は あの人なっこい笑顔で こっちこそ と 答えた
奥さんと 二人のお母さんは 最後まで棺を離れずに 4人だけの時をすごしていた
幾つもの 愛情と優しさを 多くの人々に与えて
62才で この世に別れを告げた H君
今は あちらの世界で 二人のお父さんと暮らし
やはり 多くの人々に あの優しい垂れ目で いっぱいの愛情を届けていると思う
奥さんと 二人のお母さんは 今も 3人仲良く暮らしているそうだ
【H君がこよなく愛し 長く住んだ街の 自然】