回顧録 no.64 「‥夢の風景 ~底にある 風景」
「~底にある 風景」
三叉路が なつかしく見えてくる
南の山側には 一軒の雑貨屋さんがあり
後ろには 大きな桜の木がそびえ 春は あたり一面に 花びらを散らしていた
店の 向かいが発電所で 水を運ぶ 大きな管が 山から続いていた
そして 発電所前がバス亭 ここでバスを待つ間 祖母は 店で雑談しながら
飴玉を買い 僕は することもなく 飴玉を口で転がしている
夏と冬 時々に春と秋 僕は 祖母と二人で この道を通い続けた
行く先は ここから 30分ほど川沿いを上った 温泉町
その町は 真冬の雪すさぶ道程を 歩き続けるとしても
そのつらさを 遥かに勝るだけの 憧れが待っている 別世界であり
その三叉路から川上に続く 狭い道路は 心躍らせる ひとつの光景だったのだ
だが そうした記憶の景色は 少しずつ 変わっていった
工事が始まり 山のあちらこちらが 削られて 痛ましさは増し 緑が無くなり
水路の管や 発電所は壊され 騒音と土煙が 一帯を占領して
豊かな自然は 人工物に代わり 動物や人々は 隅の方に追いやられていく
地区の反対運動も 飲み込まれて 次々と 住人が 家や土地を捨てた
故郷を離れるときに バスから見た 光景は 今でも忘れない
工事車両や 関係者が めまぐるしく行き交う あの三叉路
住む人が去った 土地や川や 空さえも 悲しく澱んでいたことを
それから2年 あの風景は 一変し
ダムの上流は 杉山をわずかに残して 満々と 蒼い水を貯え
わずかに色づく紅葉が 寂しげな表情で 水面を照らしている
そして あの道 あの家 あの桜は 水の底に 姿を消していた
その景色は 過去のことは早く忘れろ と言わんばかりの 仕打ちのように
映って 僕は 涙する
やがて 半世紀が過ぎ ここを離れた住民も それぞれに 幾つもの想いを
抱きながら 齢を重ね 彼岸へ渡っていった
冬や 雨の少ない 渇水期になると あの頃通った道筋や 家屋や 田畑など
懐かしく 愛おしい景色が 顔を出し 呼びかけてくれる
あちら側の人たちも この風景を 見ているのだろうか‥‥
【忘れ得ぬ 想い出は この底に ある】