「‥Mさん と ホタル」
20の頃 住んでいた町には 澄んだ水を湛えた川が 蛇行しながら 横断しており
車で20~30分ほど走った その川の上流に 石灰石の白と清水が 織りなす
美しい渓谷があって 夏には 多くの家族の にぎわいがあった
渓谷のすぐ先 古い石橋が架かる そのたもとに 桜の木が迎える
酒屋さんがあり 気さくでやさしい 高齢の夫婦が 営んでいた
時折 仕事にかこつけては 昼食時に 弁当持参で訪れ 丸いメガネ越しの
Mさんの 話を聞くのが 好きだった
同い年 大学生の息子がいることもあって とても可愛がってくれ 歴史の先生らしく
話題は豊富で いつも 新しい発見で驚き 時を忘れて 傍にお母さんの苦笑い
やがて その町を離れ 30に近い 夏に入る頃 思い立って 訪れた
以前より 少し寂れた庭には 一台の車が居座り その中は 人が寛げるように
改造され ソファや小さな机や椅子 きちんと整理された本などが 窓越しに見える
10年近い歳月は お母さんの腰を 少し曲がらせ メガネが必要になっていた
そして‥‥
そこに Mさんの 気配は なかった
認知症が 少しずつ進行し やがて ひとりで家にいることが できないようになり
お母さんが 外出するときは Mさんを 庭の車に乗せ 鍵を掛けていた そうな
そのための 車だった
だが 体は 次第に弱くなっていき 他の病気を 抱えていたこともあって
入院して間もなく 眠るように 彼岸にわたり 今年 初盆を迎えるという
仏壇の前で微笑む Mさんは あの頃と変わらぬ やさしさを湛え
お母さんが見せてくれた写真 玄関前で 僕と笑っている メガネの似合うMさん
涙で 霞んだその先に 石橋が見えて いつの夏だったか そこで一緒に
ホタルを眺めた 記憶が 蘇ってくる
欄干に腰を置き タバコをくゆらせ 飛び交う黄色い光を 黙って追っていた Mさん
夕やみ迫る頃 同じ場所に 腰を下ろし ホタルを待つ
車の中から Mさんが見た ホタルは 何色に見えたのだろう と 思いながら
そして‥‥
もしかしたら あの中に Mさんホタルが いるかも知れない と 思いながら
「父さん 来たよ」 と‥
ひときわ輝く ホタルに 挨拶する